存在もいつかは溶けてく

独断的気ままに綴る、あらしさんの話

愛を知り、人になる 〜 映画『忍びの国』〜

映画『忍びの国』を2回以上観たという人はどのくらいいるだろうか。どーせ嵐ファンだし大野担だし何を言っても押し付けがましいが、でも言いたい。あの映画は間違いなく「2度目からが」オススメ。「すべては術だった」という視点を始めから持って臨む2度目以降、本当に印象がガラッと変わる。

 

逆に言うと、アクションのインパクトこそあるものの、初見でパーン!と入ってくるタイプの作品では、私にとってはなかったようだ。とにかく観終わった後に残る「教え」のような感覚が凄い。

 

うまい例えが見つからないがこの映画、エピソードの裏側に汲むべき教訓が込められている、さながら子供が読む絵本のような独特な後味がある。時代劇ということもあり、より紙芝居感というか...w 『つなぐ』をバックに草むらに消えていく無門の後姿を見ながら「めでたしめでたし」とか言いそうになってしまう(それは私だけかw)

 

回を重ねるごとに映画に込められた「何をもって人なのか」というメッセージが沁みてくる。人間らしさ、という言葉は通常温かみを持って用いられるものだが、実は見苦しい感情にだって人間味が溢れていると、突きつけられてる気になる。そう思うと、偉大な父に顧みられず孤独に苛まれる信雄も、元の主を裏切ったことに区切りが付けられず苛立つ大膳も、実に愛らしい。平兵衛にいたっては、憎悪の気持ちでさえ「人らしさ」として昇華させてしまう、鈴木亮平さんの見事なお芝居だった。復讐心に囚われ術に堕ち死んでいった平兵衛だが、「人として死ねる」と言い残し、安堵するような表情を浮かべたその最期を見て「それもまた幸せなのかな…」という感情が湧いてきたのは、きっと私だけではないはずだ。

 

テーマを浮き上がらせるための対称座標として置かれているのが「忍び」。つまりは虎狼の族だ。ただ、劇中「人でなし」という単語が頻繁に使われる割には、そこまで極悪非道な感じは出ていない。コミカルな要素が強いせいもあるが、私の中で忍びは人らしさを「持っていない」というよりは「知らない」人達。銭を稼ぐのも、金持ちになりたい等の野望的な動機というより、ゲームで言うところの「わーいHPがあがったー」ぐらいな興味で動いてる、そんな連中に見えた。ただ、そういう輩にとっては「食べる」や「寝る」と同列なポジションに「殺す」があるわけで...。その意味ではやっぱり忍びはおそろしい。

 

幼き頃に他国から買われてきたという無門の生い立ち、そして誰にも甘えられず「弱いものは死ぬ」の世界で生きてきたことに対し、大野さん「無門は飄々としながらも内に秘めてた寂しさとかもあったと思う」(大意)と語っていたが、そんな気持ちに蓋をして、そのうち閉じ込めたこと自体忘れてしまったのだろう。それが序盤のあのヘラヘラとした表情なのかと思うと「笑いながら殺してください」のオーダーがめちゃくちゃ説得力を帯びてくる。さらに終盤の「川」で平兵衛にとどめを刺した後の肩を貸してやる顔、「可哀想な奴だ」と死者を憐れむその横顔。どちらも人の心の複雑さをそのまま映し出すような、なんとも言えない表情だった。あれは無門に人らしさが宿った瞬間。素人の私にも演出プランが1本の道筋に見える。これは紛れもなく無門を〝主役〟にしたお話であるという理解が怒涛のようになだれ込んできて、あっ...いかん...これは完全に術に嵌った...となる(笑)

 

そしてもうひとつ。川の死闘で平兵衛が見せた「生気」とは別ベクトルから無門を変えていったのがお国に他ならない。正直言うと石原さんのお国、ビジュアルは原作通り!と心踊らせていたものの初見ではキャラクターがはっきりとした形で見えず、やや消化不良(さらに言えば原作でもあまり濃ゆいキャラという感じがなくぼんやりした印象)だった。

 

これも二度観たところでモヤが晴れたような気がした。どうも事前の宣伝で「鬼嫁」だの「尻に敷いてる」だの見たり聞いたりし過ぎて設定に縛られてしまっていたようだ。2度目からは「違う、お国さんは普通の武家の娘さんなのよ」という認識に変わった。夫の出世を夢みて檄も飛ばせば、武家出身らしく「国を守る誇り」を簡単に口にし、戦で自分の身に及ぶ危険に恐れおののく。一見ブレブレな設定のようでもあるが、お国はごく普通のお嬢さんなのだ。それでいい、むしろそっちがリアルだ。

 

だからラストの平楽寺で小茄子を高々と挙げ無門を守ろうとした彼女の声色が、本当にあらん限りの勇気を振り絞ってるように聞こえて、ますます胸に迫る。虎狼の族を前に、どんなにか怖かったろうって心がきゅっとなる。「名前が無いなんてふざけてる」と怒っていたお国が最期に〝名前なんて無いんだ〟と知る。大好きな人の前で自分のいちばん弱い部分を見せた無門に、お国がかけてやる情け、いたわり、大いなる母性。あれっ、冒頭からのスーパー忍者はどこへ行った?ここに居るのはありふれた、それでいて愛を求めてるだけの、ただの男じゃないか。無門の悲鳴から以降味わうダメージったら無い。待ってよ、払う代償が大きすぎない?お国のために手に入れた小茄子のせいでお国が...なにこの運命のいたずら感、時が遅すぎたという思い。チキショー!!ホントぜんぶ小茄子のせいだ。悔しくて仕方ない、やるせなくなる。

 

なんのインタビューだか忘れたが、お国には鼠と心通わせるなど、もう少しキャラをふくらます出番があったのに、シーンまるごとカットされたらしいことを読んだ。もったいない気もするが、削ぎに削いだことでなんとなく〝概念化〟したというか、無門にとっての幸福のアイコン的な役割に落ち着いたと思う。彼女の末路があのような形であったことも合わせ、描き過ぎなかったのが功を奏している。監督の英断を讃えたい。

 

中村義洋監督については『ゴールデンスランバー』『予告犯』と『白ゆき姫殺人事件』を観させてもらっているが弱い人や特に「機会に恵まれなかった人」に対して愛ある見方をされる方という印象。うゎエグいな…と思えるような場面でも、そこにちょっとだけ温かみを乗せられる人。ご自身もどこかゆるゆるとしたムードを持っていらっしゃるが、実際も穏やかで優しい方なのだろう。作風とのマッチングが妙に頷ける。

 

ここまで忍ぶこと7回。なんなんだこの中毒性w 私だけなのかと思ったら娘まで「4回目をキメたい」と言っている(笑)今回は無門を中心にした考察ばかり書いてしまったが、中心に据えるのは誰でもいいと思う。観た人がそれぞれにこの群像劇を楽しめばいい、かなり掘り甲斐のある映画だから。

 

ちなみに4回目をキメたい娘のお目当ては 日置大膳 である。完全に、惚れている(笑)