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存在もいつかは溶けてく

独断的気ままに綴る、あらしさんの話

思いが介在する度合い 〜大宮の表現について考える〜

ちょっと前になるけれど。「大野二宮のふたりでモーツァルトサリエリの話をやってほしい」という、褒めてるわけでもない割とどうでもいい呟きに(笑)10コくらいふぁぼがついて「おお、ニーズがあるのか」と驚いたことがあった。(ちなみに『魔王』の初回にニノちゃんがゲスト出演したシーンでも同じこと呟きました 笑)

 

天才オーツァルトに嫉妬する二ノエリ。だが同じ音楽家として彼の才能を誰よりも理解し愛していて、だからこそ憎い、憎いから執着する。どす黒い感情で自らを追い詰めるニノエリであったが、天才は彼の苦悩など微塵も知らない。そればかりか明らかな駄作なのに「ニノエリくんは凄いなあ〜こんな素敵な曲ボクには書けないよ」と言われ、嬉しさと屈辱でいっぱいになった二ノエリが半笑いを浮かべる…

 

というところまでが妄想の中身。*1  暇人かw

 

ところでこのキャスティング。私の中でこの逆はあり得ない。絶対に天才の役が大野で、苦悩する凡人のほうが二宮だ。勿論そのままのことを言っているのではないし、二人とも天才に疑いはない(笑)実際の大野さんがものすごい努力の人なのも知っていますw あくまで妄想の都合における役割上の話ね。つまり北島マヤが大野くんで、姫川亜弓が二宮くんなの!

 

話が飛躍した、もとい。

 

真逆…ではないんだけど、大野くんと二宮くんは好対照だなあ〜と思うことがよくある。歌でも踊りでもお芝居でもそう。例えば二宮くん。その表現力には、いつもどこか〝体温〟を感じる。またまた暴走する妄想だが、実際の二宮和也という人は、きっと心の襞面積が普通の人の三割増ぐらいに出来ていると私は結構思ってて。パッと見綺麗なものでも彼の網膜はわずかな澱みを見逃さないし、1の投げかけに対し4ぐらいのボリュームで受け止めてたりする(で、返しが4かというとそれはまた別の話っていうミステリアス加減もたまらない)とにかく感じ取る力がすごい人で、思いがまず先に立って表現へと向かう、そんな人なんじゃないかと思ってる。

 

あゆはぴツアーでの彼のソロ『また今日と同じ明日が来る』の単に歌って踊るだけじゃない、感情や内面を通り越してもはや〝情念〟というに相応しい世界観が作り出せるのも、あの感性があってこその気がしてる。気持ちが波動になって伝わってくる気がするんだよニノちゃんは。思いのこもったパフォーマンス。心打たれないはずが無い。

 

一方のリーダー。この人が放ってくる感動も凄いものがあるけど、正直「思いが伝わる」という方向性とはちょっと違う気がする。昔、潤くんが大野さんのことを「自然。植物みたい」って言ったエピソード、なんて的確なんだ!って膝を打ったけど、私が言いたいのもまさにそれで。むしろ思いが媒体になってなくて、事象の衝撃だけで攻めてくるのが大野智なんだと思う。例えが若干メチャクチャだけど、植物の光合成を「理屈は分からないけど日光浴びながら二酸化炭素吸ったらカラダから酸素が出てくるんだよ?めちゃくちゃ不思議じゃない!?」っていう驚き。なにそれどういうことなの?って思うけど、答えは無い...みたいな。むしろ理屈とか思いなんてものをくっつけること自体が野暮な話で、本物のオーロラを観たら勝手に涙が溢れてきた...そういう類いに近いような気がする。お芝居については当然〝脚色〟の要素が入ってくるから、この法則がまんま当てはまることは少ないのかもしれないけど、最終的には「なんなのこの人、ていうか、そもそも人なの?」ってなるのが私にとっての大野さんなのである。ほらあーやっぱり植物じゃん!(笑)

 

どちらにも心を揺さぶられる。大好き。ただ、言語としてまとめたがりな私からすると、やっぱり説明がつかなくてキリキリさせられるほうが敗北感は強い(笑)だから私は大野担なんだろうなw

 

そんな異なる2人の天才のお芝居ガチバトル。やっぱりオーツァルトとニノエリが観てみたい。なんならマヤと亜弓でもいいよ!(爆)

 

ということで。しょうもない妄想劇場におつきあい有難うございました^^: 感謝!

ではまた。

 

*1:この話、実は更に妄想が発展し最終的に「芸術に魂ごと捧げ狂死した天才の墓の前で豪雨の中ひざまづき〝貴方の居ないこの世界でどうやって生きていけばいいのか!!〟と絶叫、地面に叩きつけた拳で跳ねた泥水がニノの顔を汚すとこ」まで行ったことをご報告しておきますw